ただわたしは知りたい

めでてえな。めでてえことをめでてえと言える。言えたことにびっくりもしながら、変な顔しちゃってないかなとか。前よりもすごく、めでてえのパーセンテージが高い。

友達が、転職するらしい。友達の大好きな雑誌の編集に。

わたしが高校生の頃、ずっと雑誌読みまくっていたとか、古本を集めていたりだとか、それと同じようにきっと友達もいろんなものに触れて過ごしてきて、今まさに、その場所にたどり着く。その過程と、一途さに、めでてえなあって別れた後の山手線でじゅわっとした気持ちになっていた。

漫画を読んだ。下手くそすぎる絵。でも、着実に毎日這いつくばりながら歩みを進めてきた様子が滲み出ていて、一気に読破した。それをまた別の友達は「きみらしい」という。最後になるにつれて、上手くなっていく絵。下手くそすぎる中にも、絶対に丁寧に時間をかけて書き上げたんだろうっていうカットがいくつもあって、なんども息を飲んだ。

書け、書け、書け、その漫画がまくし立ててくる。

逃げるのはやめる。言葉が似てしまうことからも。自分の奥底にあるトラウマからも。言い訳からも。自分自身からも。逃げるのはやめる。

最近、誰かと話した後、その人達がブログを始めるという謎の現象が起こっている。それをその人は「贈与」という。こんなわたしから、何がしかを与えられたと。

二年前に一緒にリゾットを食べてからというもののちょくちょくドーナツやカレーを食べに行く友達がいる。わたしに「二年前に戻ったほうがいい」という。

圧倒的な絶望感と虚無感。やりたさ100パーセントのものを次から次にやってきたわたしにとってとても気が狂いそうになる日常。意識を持ち去られないように、必死に、そして頑固に足を地面にくっつけて踏ん張って立っている。これが原因なのかもしれないけれど、どうしたらいいかはわからない。「これおもろい!やろうぜ!」「おっしゃ!」しかいらない。それ以外はなんのためにある? しかし今日もまた、なんとなくの感覚で作った見積もりがピッタリすぎて褒められて嬉しくなってしまった。だめだだめだ、なんて阿呆らしい。

いつもうれしい言葉をくれる人。「きみは、大丈夫だよ」という。

ある人がブログをはじめた。いろいろが重なって、わたしもまたガシガシ!いい文章を書けるようになりたいとか、ライターになりたいとかはなくなった。そんなことに惑わされるのはやめた。元をたどっていくと、ただ一つ。それ以外のことがわたしを混乱させているだけ。

書かないと出てこない感情を、ただわたしは知りたい。

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