「書いて書いて、書きまくって生きていこうね!」
おのれ、低気圧め…。湯たんぽを抱えて布団にくるまり、眠りにつくこともできず、走り書きのメモを年内に供養しよ…と書きながら眠っていた。そのときのあたしはそのときのあたしに違いないんだけれど、もういまのあたしではないのでおもしろいね。
12月17日
あ、あたしは基本的にしゃべりたいことはないんだと思いながら電車に揺られた26歳の誕生日。別に誰が相手でも、どんな状況でも、あんまり言いたいことがないんだよな。それは冷酷なんでしょうか? とずっと思っていたのだけど、もうそれもどうでもいっかの気持ち。みんなは一体何を言っているんだろうと思うし、そんなふうに思えてすごいなと思っている。どこか遠いところの話を聞いているみたい。あたしはあたしでひとりで空想に耽っているだけでな~にをやっているんだか!と言いながらももちろんやめる気はないのである。わるいことをしたと思ってすこししゅんとしている。
わたしがいちばん悲しくなるのって、言うのやめよって思うことなんだって気づいた。あと、言うのやめよって思った言葉の代わりは大体優しくて、わたしはつめたいなと思った。
言うのやめよって思うのが悲しいのは、言ってもしょうがないかとか言うほどのことでもないかとか、なにかをあきらめているような気持ちになるから。それはつまり、わたしが人に興味がないからなんじゃないかとか、誰にも大して期待していないからなんじゃないかとか。最近そういうことを考えていたこともあって、そういう瞬間に出くわすたびに、みんなはすごいなあって、みんなは一体何を言っているんだろうって、みんなとの距離がどんどん離れていくような気持ちになる。何に対してもそんなに不満がないし、「そういうもんか」「こうしたいんだなこの人は」とか、周りのひとに対して年々なにも思わなくなっていて、それがすこし悲しくもある。
いろんなことが、どうでもいいのだ。でもそれは、どうでもいいから、わたしもわたしで好きにさせてくださいね、みんな己の信念で生きていきましょうね、ということでもある。わたしはそのくらいわがままなんだろうと思う。
12月20日
おでんの湯気とかヒーターのオレンジとかグリーンラベルとか。M-1をちゃんとみはじめたときのことを思い出しながらへらへらひとりで笑ってみていた。そんな夜を過ごしながら、ああ、いろんな夜があるんだなと思った。いろんな人がそれぞれに選択してそれぞれの夜を過ごしているのだ。枝分かれがたくさんあればあるほどどんどんちがう人生になっていくのだ。CMの合間に、どうなってももうおんなじにはなり得ないことを考えていた。酔っぱらっているからかな~。
12月26日に予約投稿していたはずの日記
プレゼントを考えながら思い出したのは、書くことをもう一度はじめた夜のこと。そこには、わたしにとってすがすがしいほど明確なはじまりがあって、どんな音楽や本や受け取った言葉もかなわないくらい、わたしはその事実に救われている。
なのに、紙袋をさげてるんるんで帰りながら、手紙を書くなら、とたくさんの書き出しを考えてみたんだけれど、なぜかそんな言葉は必要ない気がしてきて日記を書いている。あの夜も、そうやってとりあえずスマホのメモに言葉を延々連ねていったんだった。気づいていましたか? 実はくせのうたの日記に記されているのは、もともと直接伝えようとしていた言葉なんだよ。あまりに長文になってしまって送れなくなってしまったけれど… 書いて書いて、書きまくっていればきっと、何かに、誰かに、そして知らない自分につながっていくって、気づかせてくれてありがとう! だから、これからもそうやって生きていこうねって話。
はずかしいから予約投稿していたはずなのに、下書き保存になってたよ!って話!「ひねくれている」って言われたのもうれしかったし、いつもこ~んな日記を読んでくれてありがと!
12月29日
窓から差し込む夕陽に照らされて、きらきら光る題字。四時のチャイム。坂で遊ぶ子どもたちの声、遠くの道路の音、ひんやりした風。窓のかたちの光がだんだんと薄くなっていく。ああ、こんな時間があるのかと思った。何かしなきゃと生き急いでいたこれまでと違う時間の経過を感じている。読んだりかけてもらったりする言葉も、目で見たり耳で聞いたり身体で感じとるすべてのことも、ひとつひとつを丁寧に感じとりたい。今年のいろんな気持ちがつながった今ならそれができる気がする。風で揺れる細い糸が見える気がする。長かったようなあっというまだったような。そんな一年のしめくくりをどうすごそうかな。
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