「知りたいと思うには 全部違うと知ることだ」
会話は断片しか覚えていないのに目の前がぐぐぐとひらけた気がして、この数日間ずっとドキドキしている。それはもう、翌朝浮き足立っちゃって駅までの間に大転びしてしまうほど。そんなわたしを横目に通り過ぎる犬がキャンキャン吠えていて面白かった。
思えばずうっとふさぎこんでいた。何かがもう、終わってしまったのかもしれないと、自分で勝手に見切りをつけていたのかもしれない。そんなことはないのにね。
いろんな話をしていたら、忘れていたいろんなことを思い出して、だからたぶん話は脈絡もなく、たいそう言葉足らずで大丈夫だったかなと不安になっている。あ〜。正気じゃなかった。とにかくテンパっていた。もっともっと、聞きたいことがあったのに。でも、そこはかとなくおんなじ気がして、それがめちゃくちゃうれしくて、笑いが止まらなかった。
でももちろんおんなじじゃないしなーとか、そんなのおこがましい、怒られちゃうかも。そしたらちょうど、「知りたいと思うには 全部違うと知ることだ」って歌詞が急に響いたり。それで、久しぶりに止まったままのブログを開いてみたら、まじのわたしがいっぱいで、そしたらもっともっと、おんなじ!と思って、わー!っていやいや…
びっくりすることに、この場所をつくってからもう5年も経っていた。
いろんな書き方があって、なれないながらがんばろうとしてる日もブログなのに写真一枚の日も、感情がめちゃくちゃな日も、まじでぜんぶまじのわたしで、あー、わたしはやっぱりわたしの文章が好きだし、文章を書くことでしか自分の気持ちさえ理解できないんだなと。
そしたら昔のわたしが、そのまた昔のわたしの言葉に救われているのを見つけて、変わんないな。“書かないと出てこない感情を、ただわたしは知りたい” だって。
それは原稿だってそうだった。
インターンしてた頃、上司から「感情を書き出すのがうまいね」と言ってもらったメールが残っていた。とってもうれしくて、わたしもしやこれだけを真に受けてやってきたのでは? それに対してわたしは「記事が世に出ることがうれしいっていう感覚を忘れないようにひとつひとつの記事を書きたいです!」なんて返信していてドキドキしてしまった。
書いているうちに、その人が自分みたいになって、その人が話しはじめて、それを書いていると、その人が本当に言いたかったことに出会えたような気がしていた。そういう、心にぐっと力がこもる瞬間を純度高くやっているのが好きだった。それはただのわたしのエゴとか、自己満足だったかもしれないけど、それで喜んでくれる人がいるのがうれしかったし、そうじゃないと絶対誰かになんて届かないと思っていた。
届け、届け、届けと思って、それはもう執念深く。むしろ怨念? な〜んて、もうすでに「なんであんなに書けなくなったんだろう?」と不思議だね。
ひとつの会話でたくさんのことが掘り起こされて、毎日の足取りが軽い。
あ、わたしだけじゃない!とか。わー!もっとがんばりてー!とか。おまじないみたいな言葉で頭の上のもやが晴れていく。なんだってできる気がする。一人で遠くにいきたいし、知らない人と出会いたいし、雑誌だってつくりたい。いきたい展示も、みたい映画も、読みたい本もたくさんあったんだって、どんどん視界が広くなっていく。
今は昼休みにベンチで風だって感じられるし、連れ立って飛ぶ二羽の鳥が見える。園児のシャボン玉の行先を眺められる。自分の影を見て、こんなにも肩を落としてどうしたんだよとさらに落ち込んだあの日の道を、今となっては思い出し笑いをしながら歩ける。
そんなくだらねぇを、こうやって夜明けまで。
全然眠れなくっていてもたってもいられなくって、謎を解くように書いている。
久しぶりすぎて書きたいことが多すぎた。散漫もいいとこ。でもこれからもきっと、書いては消し、書いては消しながらも、書いていくんだろうなってすこしうれしくなった。
星野源「くせのうた」
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