「すべてのものがそこにあるのに」
クーラーの効いた部屋で机に向かって、夏季講習みたい。大きな問題を解いている気持ち。何のために、何を伝えたいかって、どう生きていきたいかっていうこと。
あたしのことを救ってくれたたくさんの言葉や、本や、音楽や、作品のことを思う。その中に込められたメッセージと、そこからあたしが汲み取ったもの。メッセージと違っていても別に良くて、でも救われたのは確かで、そんな人たち、ものたちのことを本当に尊敬している。誰かの何かになれたらいいなってつくった大学の時のZINEは本当に心に残っていて、あのときの「これをみんなに伝えなきゃ!」という気持ちを思い出しては、そのトリガーが何だったのかをずっと探している気がする。
そんなことを考えていたときに出会ったのが、内藤礼さんの言葉。答えを見つけたわけではないのに、ああ、そうだ、ああ、これだって言葉がすっと入ってきた。あたしにしかつくれないものがある!とか、絶対これが世の中に必要なんだ!とかは到底思えなくて、それって意味ある? それってもしやふがいないこと? なんて思うこともあったけど、あたしが大切にしているのはそれじゃないし、そうならば、それでもいいんだって思えたんだよな。
「内藤さんが空を見るたびに打ちひしがれるのには、もうひとつ理由がある。こんなに美しいものがすでにあるのに、すべてのものがそこにあるのに、『どうして自分はものをつくるのか』というアートの根元に、そのたびに立ち返らされるからである。
『空を見て、その大きさ美しさに圧倒されて、打ちひしがれて、それでも結局は自分の部屋の自分のちいさな作品のまえに戻っていく……。こんなに美しいものが与え尽くされていても、人間は自分や誰かを幸せにするために何か美しいものをつくろうとする存在で、それは愛おしいことであるけれど、そもそもなぜつくるのかということを、わたしはずっと考えてきたように思う。自己表現ではないアート、見せびらかしではないアート、ひとの心を本来の自由な心にするアートは、いったいどこからやって来るのかということを』」
鈴木るみこ「O KU 内藤礼|地上はどんなところだったか」
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