「天空を測候することにもう一度立ち戻ってみる」

意識だとかこころだとか、考えるようなものではないことをバカみたいにずっと考えていた夏だった。そのくらいまっさらだった。「余計なことは何も言わず」とすすめられた江之浦測候所。ぴったりすぎて、なんでなんでも知っている?と思っては、「なんでもは知らないわ。知っていることだけ」という台詞を思い出した。
落ち着くなあとひとりざくざく歩いていく。みかんの木が並ぶ坂を下ったり、竹林のなかを登ったり、作品とか木漏れ日とか虫とか、猫みたいな雲にいちいち足を止めて。石でできたベンチを見つけたら帽子を脱いでポカリスエットを飲んだ。落ち着ける場所を見つけては、ノートを開いて思うままに木々や石や海を描いていた。まっさらだったはずなのに、もっともっとまっさらになっていく感じがした。

“冬至は一年の終点であり起点でもある。この特別な一日は巡り来る死と再生の節目として世界各地の古代文明で祀られてきた。日が昇り季節が巡り来ることを意識化し得たことが、人類が意識を持ち得たきっかけとなった”
“新たなる命が再生される冬至、重要な折り返し地点の夏至、通過点である春分と秋分。天空を測候する事にもう一度立ち戻ってみる。そこにこそかすかな未来へと通ずる糸口が開いているように私は思う”

自然のなかで自分の身体とこころを測候しているようだなと思った。一度立ち止まる、ではなくて“立ち戻る”ことが大切で、そこにこそ糸口があるのかもしれない。
豊島美術館で風を感じたとき、ぜんぶゆるぎなくうつろいゆくものなんだって思った。でも今日はたくさんの石をみて、でっかい石も、どこかで役目を果たしていた石も、踏みしめられる小さな石も、何百年も前からあるのかとびっくりした。昨日、5年分のあたしがつながった!なんてうれしくなっていたけれど、あたしはその前の何十年とも、これから先の何億年ともつながっているのか。身体がここにあることを、時がつながっていることを実感して、秋は、冬は、春は、そして来年の夏は、いったいどんな景色がひろがっているんだろう? またぜったい来ようって思った。
浮かれて塗ったネイルもいつかははげていくし、お腹だってちゃんとすくし。身体もこころもちゃんとここにある。夏の最後に、お気に入りの帽子をかぶれてうれしかった。帰りの電車で、まだ明るいのにまっしろな月がみえてうれしかった。

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