これまでも、これからもずっとわたしで生きていく

会社に行けなくなって、1週間が経った。最初は本当に自分の家からも出られず、道ゆく人を見るだけで涙が出ていた。だけど、やっといま、小雨が降るのを眺めては、一言一言、文字をゆっくり打つうちに、ほんのすこしの活力がからだの底から湧き出しはじめていることを実感できている。


喉が押しつぶされるような気がして息ができなくなって、ただ泣くことしかできなかった日のこと。そして、どこかへ行こうと連れ出してもらって、大きな湖をぼんやり眺めた日のこと。でも、一人になると何もかも無理な気がして、家にいるのも外に出るのもいやで、ただただ途方もなくぼんやりとしていたときにみつけた新刊の報せ。

大切に読んでいた漫画の新刊が出る。Kindleで1巻を買ってしまったためにずっとKindleで読んでいたけれど、やっぱり紙で読みたい。その新刊を買うことだけを救いに、重たいからだをひきずって家から徒歩3分の本屋へ向かった。

久しぶりのような気がした。ゆっくりと1列1列、用もない棚を巡回する。用があって行くのとはまったく違う。私に語りかける言葉に耳を澄ませて、一つ一つ大切に拾い上げていく。図書館に通い詰めていた小学生の頃、書棚を歩き回ってはいろんなジャンルの棚から本を拾い上げていた時のことを思い出す。同じ書棚でも、行くたびに手に取る本が違う。今思えばそれは、自分のこころの具合や揺れ動きを丁寧に形どるような行為だったように思う。

目的だった新刊の上に、どんどん積み重なっていく本たち。読んでみたいな、と思いながら、日々の忙しさに後回しにしてしまっていた本。初めて目に入る本。今必要な気がする本。その中に、「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」はあった。

“書かないと出てこない感情を、ただわたしは知りたい”

それが、ずっとわたしが日記を書き続けてきた純粋な理由で、この本を一目見たときに、直感的にそれと強くリンクするような気がして、「これだ」と思った。


“わたしにとって「書く」ことは、「編む」ことと似ているということです。

書きたいこと(あるいは書かれることを待っている何か)を探し、拾いながら、物語の糸のようなものをたぐりたぐり進んでいくと、いつの間にか歩いた分の地図が作られ、しかるべきゴールにたどり着く。
それはわたしのセーターの作り方にとても近いように思います。
ざっくりと計画は立てても、最後の段にたどり着くまではただただ手を動かして、形を追い続けるしかない。それでもやがて最後まで行き着くことができるという、自信というか、予感のようなものがわたしを導いてくれる。



冒頭の「はじめに」で心を掴まれたわたしは、めくられていくページを惜しみながらもそのまま読み進めた。こんなふうに文字を追いかけるのはいつぶりだろう。この言葉に出会うために、この本に出会うために、すべては用意されていたのかもしれないとも思える気がした。

三國さんの言葉で、三國さんの大切な記憶を辿る。そうするうちに、いつのまにか自分の中にもひろしおじやうさろうさんが居着いて、彼らと暮らしているような気持ちになる。なんともあたたかくて、賑やかだ。

この本は、三國さんが自分の半生を5年かけて綴ったものだと書いてあった。もちろん、なんにもおんなじことはないし、どうやったっておんなじなんてありえないけれど、27歳ぽっちのわたしにはわからないことや知らないことがたくさんあって、それをいまの三國さんにしかたどれない形で綴られていることにどこか安心して、それがいいんだと思えた。


前回までの日記で、この場所は終わりにしようと思っていた。
これまでと、これからを分けて、第二章としてスタートさせようと。

でも、三國さんが語るエピソードの一つ一つを読んで、全部地続きでいいんだと思えたし、どうやっても地続きでしかないのだと思った。でもきっと、それがいいんじゃない。このわたしは、これまでも、これからもずっとわたしで、このこころとからだで生きていくしかないのだから。


“ものにしても、人にしても、自分にその用意ができた時に、
ようやく出会えるものではないかと思う”

胸が少しずつ、あたたかくなっていくのを感じる。この本に、いま出会えてよかった。
三國さんの大切な記憶の数々に、きっとわたしはこれからも救われ続けるのだと思う。


三國万里子「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」

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