感覚がきっと大事「そうね」

なんだかすべてから解放されていたのか、これまでのどんな酔いよりもこの前はとても気持ちよかった。意味わかんないこと言っていたし、びっくりするような深層心理がいとも簡単に表に出ていた。冷静に思い出して自分がいかにいろいろなことに日々とらわれているのかを感じてすこし笑う。「気づいてほしい」「知ってほしい」なんて生易しいものではなく、なんだか半強制的な「知らしめてやりたい」なんて言葉選び、口に出して初めて気づいてびっくりしたよ。知らしめてやりたい、知らしめてやりたい、知らしめてやりたい、わぁ〜って爆笑しながら独り言。

そういえばちょうど1年前くらい、カネコアヤノのライブを観たのを思い出す。それは彼女が大学を卒業する頃で、「なにものでもなくなること」について話していたのを思い出す。「なんでだろう?」とピンと来なかったのを思い出す。卒業式の前日にして、よく、わかる。すこしこわくなる。わたしは一体、誰に向けて、何をしているんだろう。何ができているんだろう。あの、とっても印象的だった彼女の顔を、思い出しながら。

フラミンゴ、潔すぎるバイカラーで可愛らしい。何年か前の、今日の写真を、グーグルフォトが教えてくれる。優秀すぎて、すこしこわい。どうしよう、ちゃんとすべて笑って退けられるかしら。

「可愛い」について追い求めてきたのをよく忘れる。母から「きらきらしたものやちゃらちゃらしたものはむりなのよ」と言われた。よくそれを忘れちゃって、年齢を起点にいろいろなものをみてしまいがちだから。なので、確固たる決意がある子たちがかっこよく見える。「わたしは王道の王道を行くの」という言葉を思い出して、純粋にすばらしいと思う。頼れるところがあるのがうらやましいと思う。

わたしはいろんなものに惑わされてばかりだ。お金も時間もないのにね。まわりまわって、もうなにも可愛いと思えなくなってしまったのかもしれない、もうなにも可愛いものはないのかもしれない、と焦っては「これからどうすればいいの、あたいは」なんて。いくつもいくつも全速力で通り過ぎてしまったから、見落としているものもたんとあるし、どんどん研ぎ澄まされちゃって、ゆえに途方にくれるなんて、あほらしいね。あほみたいに絶望しちゃって、泣き出したくなる。だれもたすけてはくれない。そんな風に四六時中、彷徨ってばかりなんだけれど、「可愛い」ものを見つけるとホッとする。「そうそう、これよこれ、あたいはまだ大丈夫だ」と思う。

ものへの執着や、可愛いもの、いろいろなことへの「ピン」とくる「感じ」への執着がすごいことを、そろそろ一人前には自覚しなければならない。これから先、それが障害ではなく、わたしの何某かのエネルギーに転換されることを、ねがっている。そのためにどうすればいいのか、わたしはもっと学ばなくっちゃいけないね。そして、「ピン」という感じにもっと素直にならなくっちゃ、いけないね。

本当はただただ、欲しいお財布を見つけて、うれしくなっている、そんな話。サニーデイ・サービスを聴いている。新しい、かわいいジャケットのやつ。『JAZZとテレビ』。すべてはここに。どうでもいいんだけど、ばーって書いた後、文章を前後させるのがすき。にやっとしちゃう。その感覚がすきでこんな意味のないものを書いているんだよ。きみたち。

感覚がきっと大事「そうね」、もう春だよ。

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