ぎゃんぎゃんになっちゃって

ぎゃんぎゃんに殴られてくるしい。溜息も叫びも漏れてしまって、どうしてもいてもたってもいられなくって頭がぎゃんぎゃんになった。ユーロスペースでふとフライヤーをみつけてからずうっと気になっていて、やっとこの度。こんな、日曜の朝に聴くサニーデイ・サービスみたいな、君を誘って何処かへ出かけよう、みたいな題名だけれど、くるしくてくるしくて、どこまでえぐってくるんだ、と、胸を押さえながら。ある一点、人にはいろいろと瀬戸際があると思うんだけれど、その瀬戸際はわたしの中で一つのトラウマで、なんだかすごく、なんだか苦しかった。

実はトラウマは、たくさんあるんだけれど、人と関われば関わるほどどうしてもトラウマは増えていってしまうので、もう人々とは別れたくない。しかしそれはきっとただの甘えなんだろう。こわい。トラウマに押しつぶされるのがこわい。そういうことを、話してみたい。くるしい映画を、ひとりで見てくるしみに悶えるのはもうつかれた。誰か、誰か、誰か。

ディスコミュニケーションの連鎖。想像力の欠如。当たり前、のちがい。それはただの絶望なのでした。そういう絶望の中を生きていくしかない。お互いにそんなことをやりあいながら、絶妙なバランスの中で、絶望の中をなんとなく笑いながら泳いでいくしかない。

さっきまでくるしくって、どうしようもなくって、布団にくるまってみたり部屋の中をうろついてみたり、チョコレートをつまんでみたりしていたのに、宇多丸さんのシネマハスラーを爆笑しながらきいている。人間なんてこんなもんなので、残念だわね。はっはは。

映画の終盤の綺麗な音楽が愛おしい。akeboshi。ひとつおわってまたはじまる。きっとそうであってほしい。ちゃんと終盤になればきっと綺麗な音楽が流れ始めるから。それを聴きたい。

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